慶長5年(1600)9月、天下分け目の合戦「関ケ原の戦」において石田三成を敗り天下を掌握した徳川家康は、その拠点を江戸においたことにより旧来の京都または大坂(阪)中心で整備された交通体系を大きく改変することにいち早く着手した。そのはじめが慶長6年(1601)の東海道で、公用文書の逓送(ていそう)および人の通行を円滑に行なうための制度である宿駅伝馬制(しゅくえきてんませい)を導入し、ルート上のポイントとなる地点に宿駅を設けたのである。中山道は、東海道の翌年の慶長7年(1602)にこの制度を導入し宿駅の整備がなされ、日本の中央を通る主要道路として位置付けられることになったのである。
 御嶽(嵩)宿にはこの制度が慶長7年に導入されたことを示す「伝馬掟朱印状」(てんまおきてしゅいんじょう)(岐阜県指定重要文化財 御嵩 野呂文書)が残っている。
 この朱印状には「此の御朱印これなくして人馬押し立つる者あらば、其の郷中出合い打ちころすべし、若し左様にならざる者これあらば、主人を聞き届け申すべきもの也」と、違反者に対する非常に厳しい制裁措置が強い語句で記されており、街道整備に着手したばかりの頃には、まだ戦国乱世の世情が色濃かったことを如実に物語っているといえるものである。
 この中山道の成立には、律令制下において制定された行政区画である五畿七道(ごきしちどう)のうちの東山道(とうさんどう)が大きく関係している。
 東山道は現在の中部・関東・東北の山地を含む行政区画で、当然中央政府と地方行政組織とを結ぶ道も整備されており、この道もしだいに東山道と呼ばれるようになり、徳川政権はこの道を利用し中山道として整備していったのであり、中山道のもつ歴史的背景は非常に古いものであるといえよう。当然東海道の名称も七道からきているものである。
 江戸日本橋を起点として整備された中山道は、板橋・大宮・高崎・軽井沢・和田・塩尻・木曽福鳥・馬籠・大井・御嶽・伏見・加納・垂井・鳥居本・守山を経て、草津で東海道と合流し、京都三条大橋に達するという、まさに日本の中心を通る主要街道として機能することになった。
 中山道は東海道のパイパス的位置付けがなされていた。これは東海道には「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と唄われるように、川を渡る箇所が多くあり、加えて浜名湖の一里の渡し・伊勢の七里の渡しがあり、気候条件にその往来が左右され危険の度合いの高い難所が多かったが、中山道には比較的難所と呼ばれる所が少なかったために、こうした位置付けがなされていたのであろう。
 中山道には難所が少ないといわれていたものの実際には東海道と比べた場合、木曽谷を代表とするように山また山を通る道であったために、利用するには難があったことは否めない事実であったといえる。しかしながら山々に繁る本々や谷間を流れる渓流などは四季折々の風情を醸(かも)し出し、中山道を旅する人々は自然の美を満喫できたに違いなかろう。