日本の近世文化を代表する浮世絵は、町絵師たちによって描かれた美人画の成立とともにはじまり、町民文化がめざましく発展する文化・文政期(1804−30)になると、美人画・役者絵に加えて風景画や武者絵などの新たな領域の構図・内容の作品が多く描かれるようになっていった。
 浮世絵は肉筆画と版画によるものがあるが、版画枝術の発展により一層大衆化が進んだといわれ、従来の色刷り版画の手法により色彩を多く用いた、錦のように華麗な版画すなわち「錦絵」を生みだしていった。
 この手法を浮世絵に用いて成功したのが鈴木春信(1725−70)で、錦絵の創始者とも呼ばれることとなり、以後喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎・渓斎英泉・安藤(歌川)・広重・歌川豊国・歌川国芳・歌川国貞といった名絵師が登場し、一世を風靡(ふうび)していったのである。
 幕末期になると文化・文政期に主流となっていた美人画や役者絵は勿論のことながら、それ以上に叙情を求める気風が高まり、美しい日本の風土を描く風景画が隆盛し、広く庶民層にも受け入れられていくこととなった。
 その風景画で一大金宇塔をうちたてたのが「富嶽三十六景」(全46枚)などを描いた葛飾北斎(1760−1849)であり、それを受け継いで細やかで叙情豊かな表現をする安藤広重が風景画の世界を確立していった。広重の風景画を代表する「東海道五十三次」(全55枚)は、広重の作風と庶民層への風景画の浸透を象徴する作品として位置付けられるもので、人間と自然をなんら違和感なく調和させている表現に詩情がかきたてられ、ベストセラーとなった。
 広重の作品から受け取ることのできるこうした感情は今日でも同様であり、その作品に古さを感ずることはない。
 北斎・広重の手になるこの二作の風景画に次いで、当時二大幹線路であった中山道(木曽街道)69次を浮世絵(錦絵)として売りだそうと、浮世絵の版元保永堂(竹内孫八)は企画し制作をもくろんだのである。
 保永堂はその絵師として当時評判を得ていた広重を起用せず、美人画で評判の渓斎英泉に作画を依頼し天保6年(1835)から総数71点の「木曽街道六十九次」の出版をはじめた。
 しかしながら英泉は2年余りでこの大作の制作から手を引くこととなり、24宿を描き絵筆を置いたのである。
 このシリーズを途中で中断することもできない保永堂は、急遮(きゅきょ)時の人広重に頼み、版元にも錦樹堂(伊勢屋利兵衛)を加え制作を再開。後に保永堂は版権を完全に錦樹堂に譲って退き、当初の予定とすっかりかわった広重・錦樹堂という組合せで、これを完成させる二ととなった。
 英泉の退任の背景には、版元保永堂の意図するところと作者英泉の意図するところの確執があったと考えられているが、英泉の風景画の世界のなかに、先に発表されていた「東海道五十三次」で広重が表現した旅情豊かで日本人の心をくすぐる様な表現が若干不足していたことと、東海道と中山道という街道の持つィメージによる庶民層の反応の違いがあったためではないかと考えられている。しかし広重の登場により木曽街道の浮世絵に再び人々の目も向くようになり、評判を得るようになっていったのである。
 いずれにしても、当時を代表する浮世絵師広重・英泉によって完成された「木曽街道六十丸次」(全71枚揃物)は、北斎の「富嶽三十六景」、広重の「東海道五十三次」とあわせ三大風景画といわれるほど高い評価を得ている。
 このように評価される浮世絵は、その原画を描く絵師の技量に左右されるものであるが、絵師の絵を忠実に桜の版木に彫り上げる彫師(ほりし)と絵師の色指し(いろさし=色指定)に従い巧みに色を重ね、摺(す)り上げる摺帥(すりし)の腕前も忘れてはならない。