斎 号 一立斎
生没年 寛政9年(1797)から安政5年(1858) 62歳
作画期 文政11年頃(1828)から没年
本 名 安藤徳兵衛(幼名=徳太郎 後重右衛門名乗りさらに改名徳兵衛)
出 生 江戸八代洲河岸(現在丸の内馬場先門)の定火消の同心家に生まれる。
経 歴 13歳のとき父と母を相次いで亡くし、家業の火消職を継ぐ。幼少の頃より絵を描くのが好きであったため、15歳のときに絵師初代歌川豊国の門を叩くが弟子が多すぎるとのことで入門を断られ、歌川豊広の門下となる。16歳のときに師匠の一文宇をもらい受け、広重を名乗る。
文政元年(1818)に斎号を一遊斎とし、役者絵・武者絵を描く。天保2年(1831)頃、斎号を一幽斎と改め、10枚シリーズの「東都名所」を出版、風景画に開眼したといわれる。天保3年(1832)斎号を一立斎と改め、秋に東海道を実際に京に上る。
天保4年(1833)東海道五十三次」を刊行し、翌5年(1834)これを完成し、一躍風景版画家としての名声を得る。天保6年(1835)、暮未の木版出版界の大御所竹内保永堂が渓斎英泉を絵師として「木曽街道六十九次」の連作を企画、英泉は24枚を描いたが脱落し、広重が後を受け数年がかりで完成させた。
安政4年(1857)から同5年(1858)にかけて全120図の大作「名所江戸百景」を制作。同年9月6日、江戸で流行したコレラに罹り没した。
画 風 南宋画・四条派の絵も習得し、はじめ美人画・役者絵にその才能を発揮したが、風景画には独特の境地を開いた。この風景画の中で広重は情緒性を求め、さらに写実そのままの絵ではなく興味・特微のあるところを大きくあるいはさり気なく描きだしたり、静のなかに動を表現する方法でその独自性を現している。